« 2008年6月 | トップページ | 2008年9月 »

2008年8月23日 (土)

幕末の三舟を知る

人間は、大きく分けて「君子型」と「小人型」に分けられる。
 ・君子型とは、人間の本質をなす特性が、才知・才能にすぐれる者を言う。
 ・小人型とは、知能・技能が徳に優るような人物をいう。

簡単に言えば君子は「徳」の人・小人は「才」の人である。
  司馬 温公 曰く
    才、徳に勝つを小人と謂い(いい)
    徳、才に勝つを君子と謂う(いう)

中国古典に 「君子は和して同せず、小人は同じて和せず」 の教えがある。
しかし、単純に 君子が「善い」 小人が「悪い」 と考えるのはあまりにも短絡的にして、浅薄である。
 ・君子型の特徴は、一見したところ茫洋としてとらえどころがなく
 ・小人型の人物は、何となく小才が利いて落ち着きがない

代表的な日本人の中から君子型の人を選ぶなら、西郷南州(隆盛)のようなひとであり、小人型の代表格と言えば勝海舟が挙げられるであろう。

これより幕末の三舟について述べてみたい。
 ・勝 海舟  ・山岡 鉄舟  ・高橋 泥舟 
が三舟であり、いづれも幕末で、その号に「舟」の字があり、江戸城無血開城において、陰に陽に、それぞれが大きな役割を果たした人物として、いつのころからか「徳川の三舟」とか「幕末の三舟」 と評された。

海舟・・文政六年(1823)生まれ。「智の人

 海舟は小人の大人物であり、貧しく生きるも学ぶこと真剣であり、「日欄大辞典」全58巻を欄医の赤城玄意より一年間10両(現在の120万~130万)で借り、一年半をかけて書き写したと語られている。ところがこれまた海舟の海舟たるところ、ただ漠然と辞書を写すことなく、同じに二冊分を写し、一冊を30両で売り、借り賃や紙代そして生活費にあてたという。
 海舟の手記に「困難ここに到って、また感激を生ず」があるが、この心情がすごい、不屈の精神力を学びたいと思う。「不足こそが人間を作る代表的な詩である」
 しかし、非凡なる奇才であるに違いないが、人物の奥深さ、至誠、品性という点で乏しく、所詮はいわゆる小人の勇であるといわざるを得ない。「泥舟・鉄舟はこの反対であった」

泥舟・・天保六年(1835)生まれ。「情の人

 もと山岡 謙三郎といって山岡家の次男として生まれた。泥舟という号は維新後に使われ、それまで忍斎といっていた。 兄、山岡 静山(刃心流槍術の名人)に槍術を習い、子天狗と呼ばれた。 泥舟とって静山は、何人にも代え難い師であった。泥舟が次男であったことから17歳のときに母方にあたる高橋家の跡取りに入って高橋姓となったのである。
泥舟は21歳のとき、心から尊敬し、我が師と仰ぐ兄静山が夭折(ようせつ・若くして死す)した事から一途な泥舟は、心を痛め兄の後を追って切腹しかけたところを、家人が総がかりでようやく食い止めたと語られている。
 このありさまは情けないと思う人もあるかも知れないが、本当に修行した人の心情は、喜怒哀楽の欠片もない木偶(でく)のような人間にはならず、喜びは人一倍喜び、悲しみには常人以上に感情を寄せるものである。
 
その後、泥舟は鍛錬陶冶(たんれんとうや・人間の持って生まれた性質を円満完全に発達させること)し、22歳の時幕末の槍術教授師範となり、この槍一筋で伊勢上(いせのかみ)となったのである。
泥舟は兄静山と性情を同じくするところが大きく、兄に負けず劣らずの至誠の高士であった。
泥舟の忘れ難い名歌に
  欲深き 人の心と 降る雪は
     つもるにつれて 道をうしなふ 
がある。

鉄舟・・天保七年(1836)生まれ。「意の人

泥舟の兄静山が27歳で夭折したので、泥舟は山岡家が絶えてしまうのを惜しんで、自分の会心の弟子である小野 鉄太郎を懇望し、妹の栄子を配して山岡家を継がせた。
小野 鉄太郎こそが後の山岡 鉄舟である。
だから、鉄舟と泥舟は師弟関係であると同時に、義兄弟であった。
鉄舟は剣の修行を9歳から、禅の修業を13歳のころから始めて、後に剣禅一致の妙諦(すぐれた心理)に参じ得て、無刀流を創始した人で、剣を学ぶものには名が知られている。
維新後、宮内庁に侍従として出仕するようになってからも、三島の龍澤寺に参禅した。
当時、宮内庁は一六の日(1日、6日、11日、16日、21日、26日、31日)が休みだったので、握り飯を腰につけて草鞋(わらじ)がけで歩いていったと語られている。
東京から三島まで三十里、夜通し歩いて、参禅することを3年間続いたというから想像を超える修行である。「現代人がスポーツクラブで汗を流し、体力を維持するのとは訳が違う」
この参禅に通っているときに、箱根で富士山を見て豁然(かつぜん)と悟るところあって詠んだ歌が下記の歌である。
   晴れてよし  曇りてもよし富士の山
          
 もとの姿は かはらざりけり

自宅でも座禅の工夫を毎日続けたので、鉄舟の座するところだけが、畳がへこんでしまったという話や、死の直前にも、きちんと浴室で身を清めて白衣(びゃくい)に着替えて入定(座禅修行)の支度をし、座禅を組んだまま息を引き取った話も有名である。

また、鉄舟が単騎にて駿府(現静岡県)に使いして西郷南州と会した事実は有名だが、これも海舟の指図によるものと思われているが、実はそうではなく、泥舟自らが行くところだったが、慶喜が「今そちが出向けば範の武士たちの動揺を鎮定するものがいない」と止め、ほかにおらぬかの伺いに泥舟が答えた。「徳川の武士、幾万の中でもただ一人、愚弟・山岡鉄太郎をおいてこの大任を果たし得る者を知りませぬ」と言って鉄舟を推挙し、西郷との対談が実現した。
このときの西郷が、鉄舟を評して、「命もいらぬ、金もいらぬ、名もいらぬ、といったような始末に困る人だが、そんな始末に困る人でなければ、互いに腹を割って、共に天下の大事を誓い合うわけにはいかない」と言って、高く評価すると同時に感動したと語った話も有名である。

鉄舟も後に
「自分が国恩の万分の一でも報ずることが出来たのも、義兄・伊勢上(泥舟)があって不肖な自分を引き出してくれたからだ」 と述懐している。

上記を知るに
江戸城無血開城を理解するには天下無双の槍の名人・山岡静山を語らずして有り得ない。
静山が心血を注いで弟・泥舟に教えたのは槍だけではなく、鉄舟と出会わせ、彼を配して江戸八百八町を戦火から救い、後の明治の礎を築いたことを知るべきだろう。

 平成20年 8月 23日 勉先生より 剣友会指導者へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年6月 | トップページ | 2008年9月 »